notes

20181019



名刺を、あたらしく。


紙の白も活版も

ほどよく柔らかで

余白もすっきりとして、しずか。

デザインは青木隼人さん

ほんとうに、うつくしく

仕上げてくださいました。


広告の仕事のころからこれまで

いくつか名刺を手にしたけれど

あらためて、こころしずかにあたらしく。


ときに

世界はこんなにもうつくしい

そうこころから感じる瞬間に出会います。

星々が星座をつくるように

点は線となり、地図はひろがり

物語を深めてくれます。


これからもつながる縁を

大切にと思います。


ものごとは想像をこえてゆくのでしょう。

見えないなかにも、こころ動かされることを大事にすくって

儚くともたしかな、ひかりのある方へ。



与えられた貴いもののかわりに

わたしはなにを手わたせるのだろう。

ささやかでも、そうできることを願う。

20181009



わたしは、このちいさなわたしの世界に生きていて、それをずっとずっとちいさなものにしているのではないかと怖れる。あなたの世界の高みへとわたしをみちびいてください。そしてすべてのものをよろこんで手放す自由をわたしにあたえてください。


『迷い鳥 / タゴール詩集』より

20180701


蝋燭を灯す。

朝のヨガと瞑想のとき、日中の食事のテーブルで、静寂とともに、音とともに。

明るい時間でも、灯りの気配はこころを落ち着かせ、ゆったりとしずかな時間をつくってくれる。

それでもやはり、日のひかりがゆっくりと落ちてゆく夕暮れの時間に蝋燭を灯すのは特別なひとときだ。

ひかりのなかにひっそりとあった炎が、次第に闇のなかにくっきりと存在してくる。

見えるものが消え、見えないものが見えてくるような時間。

ゆらぎと色の濃淡はほんとうにうつくしく、じっと見ていると呼吸が深くなり、こころがほどけていくような気がする。

そして、炎は遠いなつかしさを呼びおこす。

こころの奥底の、いまでない時間軸のなかに引きこまれるようで、ずっとずっとむかしもこんなふうに炎を見つめていたのだという記憶を灯してくれるようだ。

むかしもいまも炎の灯りはいつもしずかに、そばによりそって見守ってくれていたのだという親しさを感じる。

蝋燭を灯すようになったきっかけは、3.11のあとの計画停電から。

なんどもあったその時間をしのぐために、量販店でおおきな蝋燭を買って、夜暗くなるころに恐る恐る灯した時間。音を発する何もかもが停電で消えている空間は驚くほどしずかで、夜がすべてを吸いこんでしまうのではないかと感じるくらい闇の強さがあって、そのときは慣れない炎を、頼りにできるのかできないのかわからないような心許ない気持ちで見つめながら、闇と不安のなか隣にひっそりと灯りがあった。

日々のなか灯りをとりいれて、いまのわたしには、蝋燭の炎は親密でなくてはならないものとなっている。

ひかりをふくんだような白いうつくしい蝋燭は、炎の気配をまっすぐ純粋につたえてくれる。

灯りとともに、こころに静謐でゆたかな時間がおとずれる。


震災のそのときの灯りのことを思い出すと、世界には今も不安のなかで蝋燭を灯しているひとがいるのだと思う。

蝋燭の灯りが、ささやかでもこころにあたたかさを灯すことを願う。

20180417


旅をすると、その街を流れる、川に出会うことがある。

川のあるところは空がひらけ、ぎゅっとした街中の風景をほぐすように、そのなかに一瞬に風が通り抜けるように感じる。

はじめての街でも、深く呼吸できるような、すごくほっとするような気持ちになる。

水のある場所として、海はそのきっぱりとした雄大さに、頭のなかをさっと一新して空にしてくれるけれど、同じ水の場所でも川には情緒がうまれる。

人を思い出し、その思いを柔らかにつつみこむ。

長い月日、川をながめ、川とともに育ったこともあって、旅先で川に出会うと、川が流れているこの街ならば、暮らせるかもしれないといつも思う。

こどものころの日々のなか培われた記憶があって、川は故郷なのだと思う。

いつもそこにあるたしかなものとして、なつかしく、親しく、つながっているように感じる。


永遠という時間があるような

先日教えてもらった、うつくしい曲。


By This River / Brian Eno


Here we are

Stuck by this river

You and I

Underneath a sky that's ever falling down, down, down

Ever falling down


Through the day

As if on an ocean

Waiting here

Always failing to remember why we came, came, came

I wonder why we came


You talk to me

As if from a distance

And I reply

With impressions chosen from another time, time, time

From another time

20180319



花のリレー


水仙から

日向水木

寒芍薬

雪柳へ

唐種招霊の蕾が小さく膨らみ

小手毬の新芽がのびる

桜ももうまもなく


春は容赦なく

その強さにおしだされるように

うながされるように

花の咲く



「よく人から数学をやって何になるのかと聞かれるが、私は野に咲くスミレはただスミレらしく咲いているだけでいいと思っている。咲くことがどんなによいことであろうとなかろうと、それはスミレのあずかりしらないことだ。咲いているのといないのとではおのずから違うというだけのことである。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているというだけである。そしてその喜びは「発見の喜び」にほかならない。」

そう語った、数学者の岡 潔さん。(春宵十話より)



意味をもとめず、物語にたよらず、なにかのためも見いださず、

花の咲くのをしずかにうけとめる。

ただ春をよろこぶ。




20180309


猫のすいちゃんのこと



愛する猫がいる人生は、色にない彩りをもって深くゆたかである。

そして、人生でその猫を失うことはすべての色を失い深い闇をもつ。


2018年2月24日 未明

すい、天に召されました。

ころころと、人懐っこく、じっと瞳をみつめるこ。

おだやかで、誰にもやさしくよりそう、かわいいこでした。

病に気がついてからふた月ほど、つらくとも、いろいろなタイミングと計らいに満ちた最後でした。

そこにはわたしたちだけの、濃く深い時間があったように思います。


ひとが血でつながるように、猫とは根でつながっている。

すいちゃんには、特別にそんな感覚がありました。

友人がふと、わたしに

「すいちゃんは、美和さんの気持ちを、引き受けたんだね 」と。

同じ根から水を吸うように、無意識で水を共有するように、そんな深さをもってつながっていたように感じます。


ただ一緒にいるだけのささやかな日常が、純粋な時間となって、よろこびであり、しあわせでした。

ゆるぎない安心感と慈愛に満ち、わたしのほうが、強く守られ、深くおおきく愛されたように感じます。

そんなかけがえのない大切な存在を失ってしまった。

ふれられないことが哀しく、もう名前を呼べないことが、ほんとうにせつない。

すいちゃんは、わたしの手の感触を、わたしの声を、覚えていてくれるだろうか。


「魂は受け取ろうと決めたときから、自分の魂に重ねることができるのです」

そう聴いたことがあります。

これからは、重ねながら一緒に風景をみつめる日々。ともにいきる日々。

そして、昨日も明日もなく、ただただ今を、懸命に生きる猫のことを、最後まで生きぬいたことを、つらい記憶も胸に刻むように、わたしは絶対に覚えていなければと思うのです。


姿はなくなって、それでも季節はゆっくりと、でもかくじつに、ながれてゆきます。

この哀しみは淡くなったとしても、消えることはないでしょう。

そして出逢えたよろこびが、ふと思い出す一緒にいた風景が、その痛みをつつんで柔らかくしてくれるときが来るのかもしれません。

記憶の色をすこしずつ塗りかえながら、そこにあるものの意味をたぐり寄せながら、そうやって人は物語にささえられ日々を生きていくのかと思います。

猫にはかなわない。そう感じます。


かわいがってくださったみなさま、ありがとうございました。

そして、つらく厳しかった最後の1か月、すいちゃんに、それからわたしにも気持ちをむけてくださって、とても救われました。




すいちゃん、ほんとうに、ありがとう。

どんな時もあなたがいてくれて、とてもしあわせでした。

いまも、これからも、こころから愛しています。


たくさんの気持ちと感謝をこめて。


Agnès 粋 12歳9カ月(2005.5.5ー2018.2.24)

*Agnès「純粋な、汚れのない」という意味を持つギリシャ語源






20180109



雪の記憶。

時々、雪の降る街に、また住みたいと思う。

雪があたり一面を白に染めていく風景を思い浮かべると、懐かしい気持ちになる。

それは住んでいるこの街の陽気のせいなのか、もっと奥底の感覚なのか。

    

こどもの頃、わたしの暮らす街には、冬には冬らしい雪が降った。

朝、学校に行くときにはみえていた道が、夕方帰る頃には道がなくなるほどに一面雪におおわれて、膝くらいまでの雪をかき分けて家まで帰った日もあった。

夜中のあまりの静けさに、しんしんと、それこそほんとうに、無音のはずなのにしんしんという音がするような雪が中庭に降りつづいていて、街灯の明かりに染まる雪のかさなるすがたに目をうばわれ、眠れなくなったりもした。

     

圧倒的な白の世界。

音がないのに、音がするような、色がないのに、色があるような、雪の世界。

ことばはなく、ただ存在だけがあるような世界。

その白の雪の記憶が強くこころに残っていて、それはわたしの絶対的美意識のようなものをつくっていると思うところがある。

揺るがないいつもそこにある白い風景。すきな余白や余韻や空白はとても大事なものとして、その白の記憶につながる。

いつでもその世界にもどりたい気持ちになる。

大人になって、雪がほとんど降らない街に住んで、不意を突くように降る雪は、なんだか高揚するものとしてあらわれて、白の記憶とは別のものである。

あの静けさ。こころにも染まってゆく白。静けさが染みわたって外と内がつながるような感覚。

もう儚い記憶の遠い憧れのようなものなのかもしれない。

それでも、その白がふと、たしかに、自分を包んでくれるような気もしている。

また、雪の降る街に住みたいと思う。



20171016


映画「パターソン」を観ました。

観終わって帰り道、ひとの深いところにある、水がこんこんと湧き出ている、しずかな場所のことを思いました。

さざ波のような感情の、もっと奥深く内側にあるもの、表現者だけでなく、誰しもが持っている貴いうつくしい場所のことを。

評価や対価とは関係のない、自分が自分を救うものとして、清らかな水の場所を持っていることに、ひとが在ることの希望を感じました。


そして、つながること。

映画のなかで主人公と束の間ことばを交わす、詩がすきな女の子や、詩を書くようにとノートを手渡してくれる男の存在。

それは長くいる友人やパートナーや家族とでなくとも(むしろそれよりも)誰かと深いところでつながる瞬間が、日々のなかでもあるのだと、それはなんだか生きていることのちいさな祝福のようで、勇気をもらうようなものだなと思うのです。

村上春樹さんの小説の、深い深い井戸のなかでつながるような、そんな意味として、感覚として。

水がこんこんと湧き出る清き場所で、ふと誰かと出会うことがあるのだと。


先日ひらいた演奏会で、ずっとその会に参加したいと言ってくれていた友人が(遠くに引っ越したこともあって)幾つかの事情でやはり来られなくて、それでも遠くからこころを寄せてくれて。

その場所にいないけれど、友人の思いはその場所にあったなと思いました。

見守ってもらったような、とてもあたたかな気持ちになりました。


日々のなか、深いところで出会う、そのちいさなひかりを時々の希望として。

  

20170629

  

呼吸のワークショップをおえて

呼吸をととのえることは、こころとからだ、内側の調和をつくることなのだと思います。

そして、しずかに向き合うことで、自分のいまの状態を知る。

その気づきこそが、こころとからだを、すっとまっすぐな軸に立たせてくれるきっかけとなる。

気づくことで、自己の治癒は、もうそこからはじまっているのではないかと感じるのです。


自分のなかに、そして自分が付随する世界に、うつくしい調和をつくっていく。

自分をみつめ、感じた感覚を信じて。


「こころしずかで、ひかりある場所に立つ」

ささやかながら、そんな時間やものを手渡すことができたら。

そう願うのです。



あなたが、こころしずかで、ひかりある場所に

立つことができますように。



20170611


自分の経験を通してしか、ものごとははかれない。

そして、それを軸に、思いを巡らすこと。想像すること。身をひたしわかること。

ほんとうに、ひとを深く知りたいと思うとき、

自分を深めていくしかないのかもしれない。



20170519

  

朝、考えごとをしていてふと

「循環させる」ということばが浮かぶ。

ものごとを、水のように循環させる。

とめると水は濁るから、渡されたものは抱えこまずに、つぎに流してゆく。

大切に受けとったものを、別のかたちにして、誰かに手渡してゆく。

流れをつくってゆく。

わたしのできるかたちにして。

できればずっと水が澄むように。

  

表現することばかりでなくてもいい。

手渡す方法は、きっといろんなかたちがある。



20170515

緑がまぶしい皐月。友人から小包が届く。

慎ましくしずかな佇まい。

箱の蓋を開けると、なかからその土地の豊かな恵みがあらわれた。

ひとつひとつ大切に新聞で包まれた、小玉葱、茗荷茸、大蒜、スナップエンドウ、絹さや、サラダ菜、グリーンリーフ、カモミール。

そして、今日うまれたばかりという玉子がひとつ。

玉子でつくったちいさなメレンゲ菓子も。

野菜とともにあふれる、健やかでやさしく力強い空気をふわりと感じた。

「全部わたしの畑で採れたものです」

手紙(とても彼女らしいスタイルの手紙)にそえられたその言葉に胸がいっぱいになる。

豆類と大蒜はパスタに、茗荷茸は汁ものに、玉子はサンドイッチに、

そしてサラダとハーブティーにと、みずみずしさを逃すまいといそいそといただく。

その野菜を口にすると「食べている」というその感覚が普段とまったく違っていることを感じる。

おいしい、という言葉ではとても追いつかない、まるで「ひかり」を食べているようなそんな感覚になってくる。

ああ、食事とはほんとうに、エネルギーをいただくことなのだなと、あらためて強く思う。

ちいさな場所からうまれる、まだ決して多くは採れないであろう大切なものを手渡してくれたことに、こころがあたたかくなる。


彼女が土に立つ、その姿を想像する。

正しいとか正しくないとかにとらわれない、感覚をひらいた彼女らしいやり方で、

空と土と種と対話する姿。

内側に向かいながら、外に解放されてゆく気持ちよい風がふく世界。

ちいさな種の無限のひろがり。

きっと、とてもうつくしい世界。

その場所にずっとひかりがそそがれることを、こころから願うのです。



20170430


センダンの新芽がのびやかに風にゆれる。

鼻さきにはカラタネオガタマの花の香りも甘くとどく。

 

木がゆれる、風がふく、雲が流れる、ひかりがそそぐ。

自然によりそって、風景をみつめ、気持ちをむけてみる。土や草にふれてみる。

ぎゅっと糸が絡まったようなこころも、やわらかにほぐれる。

すこしずつ、気持ちが外にひらいてゆく。

ひとの言葉や行動も自然のようなものなのだと思うと、しずかにとらえられる気がする。

風がつよい、雲がやわらか、ひかりがあたたか・・・。

そんな風にみつめると、感情をゆさぶられずに(もちろんゆさぶられることもあるのだけど)、すこし距離をもってそのことをうけとれる。

期待することもなく、なげくこともなく。よい意味で。

今日は雨が降っている。ああ、そうなのだ。としずかにおだやかにうけとることができる。

雨もまたよい、と思える時もある。

ひとも日々刻々とかわってゆく。会うたびに風景のように、あたらしい気持ちでみつめてみる。


青い空が気持ちよい1日。

あしたはもう5月。

遠くの友人に宛てた手紙は、きっとあした届くだろう。



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